無駄があるから世界は成り立つ

 くっそ忙しくてやりたくないのだが、論文の査読を引き受けた。

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査読は他の研究者の書いた論文の内容が科学的に適切かどうか評価して、その評価結果を雑誌の編集者に連絡すること。例えるならば、ある作者が原稿を書いて、その原稿を本にしてほしいと例えば講談社に持ち込むことが投稿という作業。本の場合は、編集者がその内容をチェックするのだが、科学の世界は分野が広すぎて編集者のカバーできる範囲を超えてしまう。そこで、専門が近いと思われる研究者にチェックをお願いする。これが査読依頼で、研究者がチェックする作業が査読だ。当然、自分の書いた論文も世界のどこかの研究者が査読してくれている。

 絶対的には自分の負荷はこの業界ではかなり低い方だが、個人的には忙しい。この査読には何の報酬もない。一方で、この論文は38ページもあるので、読むのにかなり時間がかかる。多分内容を読み込んでレポートを編集者に返すまでに12時間くらいかかると思う。かなり負荷が高い作業なのだ。でも、自分の投稿した論文も、世界のどこかの忙しい研究者が読んでくれているのだ。それを思えば、自分だけが査読してもらって、他人の論文を査読しないのは勝手すぎる。だから引き受けた。勉強にもなるしね。

 高等教育機関においても、無駄の削減、業務効率化の推進とかいろいろ言われるが、無駄とか非効率というのは余裕でもある。これらを極限まで詰めれば、負荷が変動した時にすぐに仕事を捌ききれなくなる。査読しかり。こんなのは無駄以外の何物でもない。でも世界中の研究者がすこしずつ無駄時間を持っていて、それを皆でシェアすることで査読制度は成り立っている。この査読制度があるから信頼に足る論文が出回る訳で、もっと言えば、世界中の研究者の無駄時間の集積が、科学を支えているともいえる。そんな訳で、あまり高等教育機関の無駄の削減を進めるのはやめていただきたい。