准教授公募戦を振り返る その6

 自分のため、これから挑む人たちのために准教授公募戦を振り返ってみようと思います。

 次は北の宮廷の教授戦に申し込みました。とち狂ってますね。色々と事情があって、無謀なことをやることになりました。当然落とされるのですが、公募書類を作ること自体は勉強になりました。准教授クラスと比較すると、例えばJIS規格のような規格の制定に貢献したか、とか学会でどのような主導的な活動をしたか、と言った社会貢献がが論文以上に要求されるのです。教授戦に挑むのは10年後くらいでしょうが、それまでに社会貢献をしっかり努めなければいけないということがこの時点で分かったという点はおおきな収穫だったと思います。

 そして最後の戦いは首都圏遅刻、地方遅刻A、地方遅刻Bの三面同時作戦になりました。公募締め切りが1カ月以内に集中していましたので書類の準備が大変でした。コピー&ペーストできるところもあるのですが、微妙に追記する必要があったので、手間がかかりました。例えば、ほとんどの場合、論文のpublishされた年くらいまでしか業績に書きませんが、ある大学は、月と日まで記載せよとのことで、これが異常に手間がかかりました。

 これら3大学の公募では要求している専門性は殆ど同じ(例えば、破壊力学とか、交通工学とか、都市計画工学とか、そういう分類のレベルで同じ)、大学のレベルもそれほど差が無かったのですが、結果として首都圏遅刻と地方遅刻Bは面接にすら呼ばれず、遅刻Aに内々定をもらうことになりました。この差は、要求する専門性と、応募者の専門性が相当な精度で一致していないと、面接には呼ばれないということを意味しています。専門性の一致については、業績を稼げばいいというものではなく、完全に公募元の都合になるので、やはり応募数を増やすしか手が無いです。内々定をもらった遅刻Aは現在働いている機関から相当遠くなってしまい、築いてきた人的、物的ネットワークを相当に捨てることになるので、実は躊躇しました。しかし、自分の年齢を考えると、そろそろ公募元の求めるボリュームゾーンから離れていくでしょうし、ますますポストが減っていくことは明らかなので、遅刻Aで手を打ちました。次は、面接で聞かれた内容について列挙します。