良いものは主張しないのでありがたみが分かり難い。教育もしかり。

 良い道具って良さを主張しないんですよね。例えば服だと、裁断のヘンな服は着難いとか、肩が凝ってくるとかで主張するので、悪さかげんに人は気が付くのですが、着やすくて、肩の凝らない服は、着やすいぞー、肩が凝らないぞーとは主張しません。車だと乗り心地が悪ければ人は気が付きますが、良ければ寝てしまいます。

 教育もそうだと思うんですよ。悪い教育だと社会に出てから苦労するので悪さを認識できる。逆に良い教育と言うのは良さを認識できない。学校で習ったことなんか全然役に立ちませんという人はたくさんいます。しかし実際は、気が付かないだけで役に立っていると思います。いま、実験補助員の方を雇用していますが、工学部を出ているというだけで安心して実験を任せることができます。塩酸を直接手で触らないですし、保護メガネもします。何かガスの出そうな実験だったら換気を良くしますし、爆発の可能性のある実験だったら、配管類の確認をします。実験装置のブレーカーが落ちたらまず報告してくれます。ブレーカーが落ちる=装置に不具合なので、再度ブレーカーを入れるということはしません。こういう当たり前の事を当たり前にやってくれるのは教育のおかげですよね。

 まぁ、グチにつなげたいんですが、そういう当たり前に気が付かないので、どんどん教育改革だーみたいなことを文科省をはじめ、いろんなところが学校に圧力をかけてくると思うんですよね。英語とかプログラミングとか言ってますが、何か教えることを増やせば、何か教えることを減らす必要があります。教員は教えることを減らすなんてことは声高らかに言えないので、減らしても影響が出なさそうなところを減らしています。その減らしたところに当たり前の良さが潜んでいなければいいのですが、まぁ潜んでいるでしょうね。良い教育は主張しないので...。